top of page
貢ドル発売記念SS
​ 著:邑谷あみか

「……まだリハまでちょっとあるな」
 控え室の壁にかけられた時計を眺め、ぽつりと呟いた。
 緊張とも興奮ともどこか違う高まりを抑えながら、無意識に首元へ手が伸びる。
 衣装を整えるわけでもない、ただ触れているだけのように指先が動く。
 それだけでも、マドカの心を凪がせるには十分だった。
 目を細めたくなるほど眩しいライト、汗の雫で濡れていくステージ、身体中を熱くさせる歓声。
 落ち着こうとしているはずなのに、目を閉じればいつもの風景が鮮やかに思い浮かぶ。
「はー……」
 大きく息を吐き出せば、少しずつ冷静さが戻ってくるような気がした。
 ファンの前に立つというのに何の高揚感もないのも問題だが、飲み込まれすぎてはいけないと自分に言い聞かせる。
 再び、頭の中にステージを思い描いた。
 ――この前急にダンスが変わったあの曲はもう完璧だ。何度も練習した。
 ――今日初めて歌う曲だって心配ない。きっとみんな喜んでくれる。
 何度も何度もイメージすれば、また身体の奥から静かに高揚感が沸き上がってくる。
 自分を奮い立たせ、背中を押してくれる熱。
 心地いい熱がゆっくりと身体中を巡っていく感覚を味わいながら、マドカは目を開いた。
 数分前とまったく変わらない景色のはずなのに、なぜか少しだけ違って見える。
 よし、と心の中で呟き、舞台袖へと向かう。スタッフに確認したいことを思い出したところだし、ちょうど良い。
 歩を進めれば、脳の僅かな隙間を埋めるようにまたひとつ思い浮かぶ。
 ――ライブが終わったあとの一時。
 マドカのライブには多くの観客が訪れるが、そのあとの時間を彼と過ごせるのはほんの限られた人間だけ。
 目には見えない“愛”を“お金”で示してくれることが悪いやり方だと、マドカは思っていなかった。
 すぐに消えてしまう言葉を紡ぐより、ずっと確かで信じられる。
 もちろん、想いを直接口にしてくれるだけでも十分嬉しいけれど。
 ここ最近は、選ばれる観客が決まって同じだった。
 他のファンを引き離していくかのように、毎回多額のお金をマドカに手渡してはその後の時間を独占する。
 身体を重ねる度に深く重くなっていく彼女の想いを、マドカは受け入れているつもりだった。
 たとえ彼女が望む形でないとしても。
 彼女がマドカへ捧げる想いと、マドカが受け取る想いが交わらないとしても。
 それを分かっていてこの先変わることがないのなら、マドカも自分なりのやり方を貫くだけだった。
 アイドルとしての自分を崩すことがないように。少しだって絆されたりなんてしない。
 この先相手が誰だろうと、きっと。
「今日もかなー……」
 気が付けば見慣れた顔をぼんやりと思い浮かべていた。
 やっぱり、とでも言いたげな表情を浮かべた大勢の観客たちまで。
 マドカの身体の奥底はひりつくように渇き、それなのにじわじわと熱くなっていく。
 ――足りない。
 まだ遠くから眺めているだけの観客を駆り立てる絶対的な何かが、自分には足りない。
 ――それでもまだ足りない。
 マドカを遠くから眺めすらしたことのない、まだ自分の存在すら知らない誰かを引きずり込んでやりたい。
 手を掴んで引くことはせずに、遠くからそっと手招きだけをして。
 もう抜け出せないほどの深い渦の真ん中に沈んでから、やっと気が付いて。
 抜け出さなくても良い、ここが心地好いとさえ思うほどに溺れさせて――。
 マドカは無意識のうちに口元をにやりと歪ませていた。 
 ふと、がちゃりと重たい扉の開く音と――同時に現れた見慣れない人影に思考が遮られる。
 高ぶっていたように思える鼓動もすっと落ち着いていく。
「なんだお前?」
 すぐ外に繋がっている、関係者用の扉。
 スタッフが入ってきたのなら何とも思わないのだが、見覚えのない顔だった。他の関係者だろうか。
 今日特別に取材が入るなんて聞いてないし……と目の前の女性を見ながら頭を働かせた。
 ……推定大学生くらいの女性。恐る恐るといった佇まいで、こちらをじっと見ている。
 マドカの頭の中にひとつの結論が浮かぶまで、そう時間はかからなかった。
「何? お前ストーカー? プライベートでも相手するほど暇じゃねーんだけど――」
 

 

bottom of page